おはようございます。まるです。
転職してから初めて土曜日に仕事をしました。(公に)
いままでも普通に内緒で土日に仕事をしてはいたのですが、タスクが終わらな過ぎて土曜日に正式に仕事をすることになってしまいまして、日付変わって今日の2時頃までやっておりました。
そして今日も今仕事をしております。
不思議と全く苦痛じゃないです。むしろ楽しいくらい。
で、そんなときにふと考えたんです。なんで仕事してて楽しいんだろうって。
もちろんプログラマーという仕事が私に合っているからということもあるかもしれません。
でももしかするとプログラマーという仕事は私には合ってない可能性だってあるわけです。
これは相対的な話をしているわけではないです。
タラレバですが、私が政治家をやっているパラレルワールドがあったとして、実はそっちと今のプログラマーの自分の人生と比較できる状態であった場合、それでもプログラマーの方が合っていた、とかそういうことを言っているわけではないです。
ほんとにもしかするとまったくプログラマーという職業は私が生涯携わる仕事として合っていないかもしれない。そういう話です。
ではなぜそういう可能性を考えるようなプログラマーという職業の中で、土日に仕事を行っても楽しいと思えるかということなのですが、それは私がいままで歩んできた人生の中に理由があります。
私は生まれつき(?)とんでもない負けず嫌いです。
そして同時にとんでもないめんどくさがりです。
この二つの性格が混在するとどうなるか。
「とんでもなく楽をして人よりも秀でたい」
こういう発想になります。そしてこれは今に至るまでずっと私のテーマであります。
このブログのタイトルでもあり、トップページにも私の紹介がありますので見た方はわかるかと思いますが、私はスーパー多趣味人間です。
いままで取り組んできたものは数知れず、トップページ紹介文の中以外にもたくさんあります。
そしてそれらは先ほどのふざけたテーマに沿ってなされてきたものです。
すなわち楽をして人より秀でたいというテーマに沿って取り組んできた趣味で、つまりそれは趣味自体が楽しくて取り組んでいるというのは確かにまちがいないのですが、むしろ
「自分がそのテーマに合致しながら成長している実感を感じている」
ことに喜びを覚えている方が強いかもしれません。
つまり私は自分の成長を感じられるようなものに興味を示し、そしてそれがなされたと満足した時に飽きるのです。
なので手当たり次第に手を出して合わなかったらやめるとか、そういうことはほとんどなく、ある程度これは人よりも早く楽をして秀でることができると踏んだものだけ手を出しているわけです。
以上を踏まえて今の現状を考えてみますと、
・現在仕事を楽しいと思っている。
↓
・つまり自分が成長していると実感している。
↓
・ということは満足した時に飽きる可能性を含んでいる。
↓
・結論:プログラマーという職業が私にとって合っているかどうかはわからない。
となるわけです。
前職であるガラスフィルムを施工する、あるいはダイノックシート(装飾シート)を施工するということもやりはじめは非常に楽しかったですし、日々自分の成長を実感していました。
しかしあるところから「後継ぎになる」ということが至上命題になっていき、それはつまり私の逃げ道(飽きた先)がなくなるということです。
ま、それが原因でやめたわけでないですし、仮に代表になったとしてもその業界で人より楽して秀でることへの挑戦はしていたろうとは思います。
さておき、私は今プログラマーという仕事を今は楽しくやらせてもらってますし、仕事をこなすこと=成長の図式が成り立っている間はずっとこのままのペースで走っていくでしょう。
そしてうれしいことにこのプログラマーという業界はスキルがある人間は正しく評価されるし、つまりそれは価値=金 ということになるわけです。
楽しいと思ってやっていることが金につながる図式って素晴らしくないですか。
みんなよく職業は自分がやりたいことをやるべきだ。なんて無責任なことをいいますが、今書いたようなこれを体感した人が無責任にこれら中身を説明しないままに喚いているのが現状かなと。
少なくともわかるようには伝わってないなと感じています。
人はいずれ死にます。これは現代においては紛れもない事実ですし、おそらく私は避けようがないでしょう。
そのうち人は人としてかどうかは不明ながら不老不死になる。とは思っているのですが、その話は長くなるのでおいといて、、、、
明日死ぬかもしれないし、運よく長生きして老衰で死ねるかもしれません。
なんにせよ死ぬんです。
じゃあ何のために生きているか。
こんなものに答えはありません。むしろ人間の考えが及ぶような次元の話ではないです。
ではなぜ「人生とは?」なんていうことを考えるかと言えば、人間に「欲」というものがあるからにほかなりません。
人間は欲のために動いています。おいしいものを食べたい。遊びたい。などなど、、、
それを実現するために生きているし、むしろ生きるためにそういうものを与えられているとも取れます。
私は祖母の影響でキリスト教の家庭に生まれました。
といっても祖母以外私を含めて誰も熱心な信者というわけではないんですけどね。
で、キリスト教。ひいては「神」というものを考えた時に、神は人に〇〇を与えた。なんていうフレーズがよく出てくるのですが、これは仮に(なんていうと怒られそうですが)神が存在してい場合素晴らしいことですし、そうでなかったとて人がそういうことに落とし込んでおけば安心できるし腑に落ちる。
そういうことなんだろうと思ってます。
思い立って見切り発車で書き始めてしまっていて、結論も何も実はなく、まとまりのない文章でもうしわけないですが、人生なんて言うものは人間が定義した一種の概念でしかない。ということになるんじゃないでしょうか。
じゃあ何のために生きるのか。
私の勝手な見解ですし、私がそう思うということですが、
「死ぬときにいい人生だったなと納得できるようになにかしらを成す」
ということなのかなと。ものさしは自分自身の中にしかないことなのかなと思ってそれを自分を納得させるために心に置きながら今を生きています。
結局なんだったんだろうこの記事、、、、
ワンピース見終わったので仕事に戻ります。
それではまた。